イタリア旅行記(15):ピサ観光(その1) [イタリア旅行]
昨日は、天気が全国的に良い予報でしたので、先日考究した登山靴の試しの山歩きをしてきました。昨年は、購入したてのモンベルの登山靴で、白馬、杓子岳、白馬鑓に登って、下りで。親指に血豆を作って、ひどい目にあいましたが、今年は、山のベテランがきちんと選んでくれるお店で買いなおしました。26000円で、昨年購入したものよりも10000円以上高いですが、一回脚を傷めると、治るまで、大変ですから、買いなおしました。試し歩きの山どこを選ぶか、色々、本を調べた結果、天城山にしました。深田久弥の100名山にも選ばれているし、花の百名山にも選ばれて、今の時期、シャクナゲもきれいということでしたし、時間も、万二郎岳まで1時間、万三郎岳まで1時間、下りで2時間で、合計の歩きが4時間というのも、チェックするのにいい長さでしたので。ここにしました。
結果は、靴はOKでした。ただ、下りで膝が少し、おかしくなり、普段の運動不足が照明されてしまいました。この時の写真は、また、機会があれば紹介します。
今日は、イタリア旅行の続きです。
サン・ジミニャーノの観光の後、プラートのホテルに宿泊して、翌日の午前中、ピサを観光しました。
ピサには、ガリレオがりんごを落として、万有引力の法則の実験をしたことで、あまりに有名な斜塔があります。
一枚目は、ピサの斜塔と大聖堂の写真です。
二枚目は、大聖堂と洗礼堂です。
三枚目は、洗礼堂、大聖堂、斜塔です。
結果は、靴はOKでした。ただ、下りで膝が少し、おかしくなり、普段の運動不足が照明されてしまいました。この時の写真は、また、機会があれば紹介します。
今日は、イタリア旅行の続きです。
サン・ジミニャーノの観光の後、プラートのホテルに宿泊して、翌日の午前中、ピサを観光しました。
ピサには、ガリレオがりんごを落として、万有引力の法則の実験をしたことで、あまりに有名な斜塔があります。
一枚目は、ピサの斜塔と大聖堂の写真です。
二枚目は、大聖堂と洗礼堂です。
三枚目は、洗礼堂、大聖堂、斜塔です。
イタリア旅行記(14):サン・ジミニャーノ観光 [イタリア旅行]
イタリア旅行記(13):シエナ観光(3) [イタリア旅行]
イタリア旅行記(12):シエナ観光(2) [イタリア旅行]
イタリア旅行記(11):シエナ観光(1) [イタリア旅行]
昨日は、天気は予報に反して、気温が低めでしたが、ゴルフの天気としては、上天気でした。スコアも久しぶりに90を切ることができ、満足でした。
ここのところ、フェアウエーウッドの調子が悪かったのすが、ドライバーを変えたことも一因かと思い、フェアウエーウッドをドライバーのメーカーに合わせて、3本更新して、練習しました。大分良くなってきましたが、まだ、少し、曲がりますので、ウッドの数を減らして、アイアンの4番、5番をいれて、やったのが良かった感じです。
さて、イタリア旅行記の続きです。今日は、シエナです。シエナの歴史をウィキペディアから要約しますと、シエナの起源は、はっきりしないそうですが、街道の中継基地として、金融業で栄えたそうです。
同じように金融業で栄えてきたフィレンツエと対立するようになり、1280年フィレンツエと戦い、打ち破った。しかし、5年後、フランス王国がローマ教皇の誘いに乗って、南下し、グエルフィ同盟を結成、ギッベリーニ(皇帝派)を標榜するシエーナは孤立しました。1269年、シエーナはフィレンツェとフランスの連合軍に決定的敗北を喫し、次第にシエーナの経済活動はフィレンツェに遅れをとりはじめたそうです。
バスの駐車場から歩いていきますと、展望台があり、左からサン・ドメニコ教会、大聖堂、大聖堂の鐘楼、市庁舎横の鐘楼が見えます。
サン・ドメニコ教会と大聖堂(松露も)です。大聖堂は修理の工事中です。
ここのところ、フェアウエーウッドの調子が悪かったのすが、ドライバーを変えたことも一因かと思い、フェアウエーウッドをドライバーのメーカーに合わせて、3本更新して、練習しました。大分良くなってきましたが、まだ、少し、曲がりますので、ウッドの数を減らして、アイアンの4番、5番をいれて、やったのが良かった感じです。
さて、イタリア旅行記の続きです。今日は、シエナです。シエナの歴史をウィキペディアから要約しますと、シエナの起源は、はっきりしないそうですが、街道の中継基地として、金融業で栄えたそうです。
同じように金融業で栄えてきたフィレンツエと対立するようになり、1280年フィレンツエと戦い、打ち破った。しかし、5年後、フランス王国がローマ教皇の誘いに乗って、南下し、グエルフィ同盟を結成、ギッベリーニ(皇帝派)を標榜するシエーナは孤立しました。1269年、シエーナはフィレンツェとフランスの連合軍に決定的敗北を喫し、次第にシエーナの経済活動はフィレンツェに遅れをとりはじめたそうです。
バスの駐車場から歩いていきますと、展望台があり、左からサン・ドメニコ教会、大聖堂、大聖堂の鐘楼、市庁舎横の鐘楼が見えます。
サン・ドメニコ教会と大聖堂(松露も)です。大聖堂は修理の工事中です。
イタリア旅行記(9):ポンペイ遺跡(前半) [イタリア旅行]
今日は、ポンペイ遺跡(前半)です。
ポンペイは、西暦79年にヴェスヴィオ火山の爆発が3日3晩続きその間の火山灰、火山礫、火砕流などで、埋もれました。火山灰は、深いところで7~8メートルに達したそうです。当時、20000~25000人がポンペイに住んでいて、その1割の2000人が死亡したと推定されています。
当時、ポンペイの町は、海に面した町で、ローマの避寒地であるとともに、商人の交易で、発展した町であったそうです。
噴火の前の西暦62年に大きな地震があり、神殿の柱が倒れるなどの被害を受け、その修復が完全に終わらないうちに火山が爆発したのです。死因の大きなものは、圧迫死と中毒死だそうです。町は、城壁で囲まれていて、7つの門があったが、そこに、人々が脱出のために集中したために将棋倒しの形となり、圧迫死したそうです。もう一つの死因の中毒死は、建物から逃げられずに閉じ込められて、火山の有毒ガスで中毒死したものです。
長い間、ポンペイの場所がわからなくなっていましたが、16世紀に水道橋を作る工事のときに偶然に発見されました。しかし、発掘と言うことにはいたりませんでした。1700年代、スペインのカルロス3世の時代に、ポンペイの発掘が行われましたが、宝物を探すためでしたので、本格的な学術調査は行われませんでした。本格的な発掘が行われるのは、イタリアが国として誕生する19世紀になってからです。従って、現在もまだ、発掘調査が行われていて、そういうところは、公開されていません。
ポンペイは、西暦79年にヴェスヴィオ火山の爆発が3日3晩続きその間の火山灰、火山礫、火砕流などで、埋もれました。火山灰は、深いところで7~8メートルに達したそうです。当時、20000~25000人がポンペイに住んでいて、その1割の2000人が死亡したと推定されています。
当時、ポンペイの町は、海に面した町で、ローマの避寒地であるとともに、商人の交易で、発展した町であったそうです。
噴火の前の西暦62年に大きな地震があり、神殿の柱が倒れるなどの被害を受け、その修復が完全に終わらないうちに火山が爆発したのです。死因の大きなものは、圧迫死と中毒死だそうです。町は、城壁で囲まれていて、7つの門があったが、そこに、人々が脱出のために集中したために将棋倒しの形となり、圧迫死したそうです。もう一つの死因の中毒死は、建物から逃げられずに閉じ込められて、火山の有毒ガスで中毒死したものです。
長い間、ポンペイの場所がわからなくなっていましたが、16世紀に水道橋を作る工事のときに偶然に発見されました。しかし、発掘と言うことにはいたりませんでした。1700年代、スペインのカルロス3世の時代に、ポンペイの発掘が行われましたが、宝物を探すためでしたので、本格的な学術調査は行われませんでした。本格的な発掘が行われるのは、イタリアが国として誕生する19世紀になってからです。従って、現在もまだ、発掘調査が行われていて、そういうところは、公開されていません。