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イタリア旅行記(35):帰国 [イタリア旅行]

イタリア旅行も今回で最終回です。
3月23日(2009年)夜9時出発のJAL便に乗る予定でしたが、成田空港でのフェデックスの貨物機の事故で、成田空港の長い滑走路が使えなくなり、JAL便は欠航となりました。翌日のアリタリア航空の便が取れましたので、この日はすぐに空港近くのホテルに移動して、翌日、早めに空港に行って、チェックインとなりました。
ほかのツアーのグループでは、すぐに取れなかったところもあったようです。満席という話でしたが、結構席は空いていました。(これが、不思議です。)

ミラノ空港です。
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飛び立って、シートベルトを外してよいというサインが出たところで、アルプスの撮影開始です。
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続きどうぞご覧ください。


イタリア旅行記(34):ミラノ観光(その8) [イタリア旅行]

石川 遼君の見事な優勝、おめでとうございます。全英オープンゴルフには、実力での参加ですね。楽しみですね。
この日は、女子プロも、我が家応援している諸見里しのぶが今期三勝目をあげました。途中まで、イーチヒといい勝負でしたが、途中から、ぐんと引き離して、コースレコードでの優勝。アイアンの切れがすばらしかったですね。
残り160ヤード前後を8番アイアンで、バーディチャンスにつけてくるのは、すばらしいですね。
最近しのぶさんは、競ってきても、どっしりしていて、自信がついたという感じですね。

さて、イタリア旅行、ミラノ観光も、いよいよ大詰めになってきました。昼食後、まだ、二時間くらいありましたので、サンタンブロージュ教会に行ってみることにしました。
これが、サンタンブロージュ教会です。ミラノ最古の教会で、四世紀頃に建てられて、その後何回か改修されたそうです。
01IMG_7918r1サンタンブロージュ教会.jpg



どうぞご覧ください。


イタリア旅行記(33):ミラノ観光(その7) [イタリア旅行]

今日は、梅雨の合間のいいお天気でしたので、久しぶりに新宿御苑をぶらついてきました。写真的には、あまり、いい写真は撮れなかったので、今日の写真はお蔵入りかと思います。
男子ゴルフ、久しぶりに石川遼君が大活躍ですね。このまま、優勝してくれればいいのですがーー。彼以外の上位陣は外人ばかりですのでーー。

さて、今日は、旧マッジョーレ病院(現ミラノ大学本部)からの続きです。
一旦、ミラノ大聖堂に戻ってきました。
大聖堂の裏手の建物全体ですね。ガラスの面には、すべてステンドグラスが張られていますので、中から見るときれいです。外から見てもなんと言うことはないのですがーー。

01IMG_7866r1me大聖堂.jpg



これが、デパートです。お昼は、右側の建物の一番上の階のレストランで、食べることにしました。
02IMG_7628mdデパート.jpg




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イタリア旅行記(32):ミラノ観光(その6) [イタリア旅行]

ミラノの最終日は、夜9時頃のJAL便でしたので、午後4時頃まで、自由時間でした。ただ、この日は月曜日でしたので、美術館、博物館はお休みです。路面電車が走っていましたので、いい経験と乗ってみました。
75分までは、乗り換え可能で乗れるそうです。ただ、ホテルの近くから、大聖堂方面に行っている電車は、おんぼろなので、故障が多いので、ホテルへ帰るときには、使わないでほしいとのことでした。
そこで、大聖堂までの行きに乗ってみました。ホテルで、電車のティケットが帰るという話でしたが、駄目で、電車の乗り場近くのタバコ屋さんで売っていました。
これが、電車です。すごくぼろでしょう。

01IMG_7662me電車.jpg



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イタリア旅行(31):ミラノ観光(その5) [イタリア旅行]

ゴルフは、究極の不公平ゲームと言われていますが、今年の全米オープンゴルフは、まさにそうですね。1日目、2日で、土砂降りの中で、プレーをやったり、肝心なところで、中断されて、調子を狂わされた人とがいると反面、雨にあわず、順調にスコアが伸ばせた人の差があまりに大きかった今年、3日目、4日目も、変則的なゲームで、あまりおもしろくなかったですね。
さて、イタリア旅行、ミラノ観光の続きです。
ミラノ大聖堂の上に上ることができます。ツアー最終日に行きました。
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02IMG_7837me屋上.jpg




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イタリア旅行記(30):ミラノ観光(その4) [イタリア旅行]

今日から、全米オープンゴルフですね。2週間前のトーナメントでは、難しい上がり3ホールで、バーディをとって、見事に優勝しました。タイガーらしいアイアンの切れもあって、今回の全米オープンゴルフが楽しみです。NYはひどい天気で、タイガーは前半で。中断のようですが、あまり、調子は良くないようですね。

さて、さて、イタリア旅行、ミラノ観光の続きです。
ミラノ大聖堂の中です。
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02教会内部2me.jpg



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イタリア旅行記(29):ミラノ観光(その3) [イタリア旅行]

6月12日~14日に六甲国際ゴルフクラブで行われたサントリーレディーオープンゴルフで中国のプレーヤーとプレーオフの末、諸見里しのぶさんが優勝しました。我が家は、しのぶさんを応援していますので、大変うれしかったです。最近の彼女のゴルフは、すごく、安定感があります。精神的にも強くなった感じですね。
今後の活躍が楽しみです。

今日は、イタリア旅行の最後の都市であるミラノ観光の続きです。
ミラノ大聖堂です。(前回のブログと同じような場所からの写真ですが、この写真の左に大きな鳥が写っていました。この鳥は何でしょうね?)

01IMG_7574me大聖堂.jpg



02IMG_7625大聖堂me.jpg



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イタリア旅行記(28):ミラノ観光(その2) [イタリア旅行]

今日は、ミラノ観光の続きです。ローマから始まったイタリア旅行も、ミラノが最終観光都市です。
これは、歌劇場のスカラ座です。イタリアの歌劇場で、最高だそうです。

01IMG_7558スカラ座.jpg



ウィキペディアから概要を紹介します。

現在の建物は2代目のもので、初代の歴史的建築物のテアトロ・ドゥカーレは1776年2月25日、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失した。新劇場は以前サンタ・マリア・アラ・スカラ教会のあった場所に建設され、ここから劇場名がとられた。教会は取り壊され、ピエトロ・マルリアーニ、ピエトロ・ノゼッティ、アントニオおよびジュゼッペ・フェが2年を費やして劇場を完成した。新劇場は「公国立スカラ新劇場の名で1778年8月3日に落成し、アントニオ・サリエリ作の『見出されたエウローパ』でこけら落としを行った。

これは、スカラ座広場です。スカラ座広場は1856年にスフォルツァ城の修復も手がけた建築家ルーカ・ベルトラミにより設計されました。広場の中心にはピエトロ・マーニの作によるレオナルド・ダ・ヴィンチと4人の弟子の像です。

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イタリア旅行記(27):ミラノ観光(その1) [イタリア旅行]

イタリア旅行も最後の都市のミラノとなりました。
いつものように、ウィペディアから引用して概要を紹介します。

ミラノは、紀元前600年くらい前から町が作られていました。紀元前222年にローマに征服されて、ローマ帝国の中で、繁栄していった。450年ごろ、フン族に、539年にゴート族に略奪、破壊されたが8世紀末に再び繁栄し始めた。中世を通じて、ミラノは、大司教に統治されたが、次第に大司教の世俗的な支配を脱して、自由都市に変化し、11世紀に神聖ローマ帝国から独立した。 1162年に一度は神聖ローマ帝国の軍に敗れるが、すぐに復興し、神聖ローマ帝国軍を破り、ミラノは、新しい繁栄の時代に入った。中世後期とルネサンス時代にはミラノはヴィスコンティ家とスフォルツァ家の公国になった。1277年にヴィスコンティ家がミラノの統治権を奪い、ヴィスコンティ家の支配は1447年まで続いた。1450年には軍人フランチェスコ・スフォルツァが権力を握り、ミラノの統治者としての地位を固めた。続いて息子ルドビコは学芸の保護にも熱心でレオナルド・ダ・ビンチをミラノに迎えた。1500年以降、フランス、ドイツ、オーストリアなどの支配下にはいった。1861年にミラノは、イタリア王国に加わった。第二次世界大戦では、ミラノは連合国軍による激しい爆撃を受けたが、戦後急速に発展して復興をとげた。人口は、約130万。

ミラノも、他のイタリアの都市と同じように、いろいろな国の支配を受け、破壊と再建を繰り返してきた都市ですね。
この大きな都市を一日+翌日の午後4時までに見るのは、時間が少なかったかも知れませんね。

ミラノの象徴の『針と糸と結び目』です。
01IMG_7509me針と糸.jpg



↑ミラノ駅前にあります。このオブジェは、2000年に作られたもので、『針と糸と結び目』というタイトルの作品で、ファッションの街を象徴するものです。最初は、あまりに現代的過ぎると言う批判も有ったとそうですが、今は大分風景に溶け込んでいます。

スフォルツァ城です・
1450年にミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァがヴィスコンティ家の居城を改築して現在の姿となりなした。
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イタリア旅行記(26):ヴェローナ観光 [イタリア旅行]

ヴェネツィア観光の次は、ヴェローナ観光です。ウィキペディアから概要を引用します。
ヴェローナの歴史は先史時代に遡る。 先史時代末期にはすでに集落が作られていた。 紀元前1世紀には、ポンペイウス法によりローマ植民地の地位を与えられた。 中世初期、ヴぇローナは、東ローマ帝国、東ゴート族、西ゴート族、ランゴバルト族などの支配を受けた。 13世紀以降のローマ教皇と皇帝の争いでは、ヴェローナの支配者は概して皇帝派(ギベリン)についた。ヴェローナの支配者はスカリジェリ家(デッラ・スカラ家)、ヴィスコンティ家、パドヴァのカッラーラ家と変わっていき、ヴェローナの支配層の間には憎しみを帯びた熾烈な闘争があった。その模様はシェイクスピアの戯曲の中にも描かれている。パドヴァのカッラーラ家は1402年にヴィスコンティが死ぬと、ヴェローナの支配権を手中に納めた。しかし3年後にはカッラーラ家は滅び、1405年にヴェローナはヴェネツィアの支配下に入った。ルネサンス期のヴェローナは商業また文化の中心として発展した。数多くの学校が生まれ、ヨーロッパ規模の文化的な活動が展開された。ヴェネツィアの支配は、ヴェネツィア共和国の終焉まで続いた。

これが、ジュリエッタの家です。
01IMG_7391meジュリエッタの家.jpg




ジュリエットの像です。
02DSCF3464meジュリエット像.jpg


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